前回お話した不老橋ですが、
ちょっと目を横に転じれば、同じような古い石の橋が目に入りました。
| 前回もお話しましたように、大きく開いた紀ノ川の河口に、このような小島がポカリポカリ浮いていたら、 それはそれは叙情的で美しい風景だったでしょうね〜(^。^) が、今も「島」であるのは、この妹背山だけだそうです・・・ |
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石の橋を渡って妹背山に入ると、
この日はいいお天気だったせいもあり、とても気持ちよかったです〜
で、いったいココって何があるのかなぁ〜
小さい島の中を散策するぱいん一行!
島の中に、ボロい、ちょっと崩れかけたような石の階段を見つけました。
恐る恐る登るぱいん一行・・・あの「熊野紀行」の神倉山以来石段は苦手なのです〜(>_<)
が、石段を登ると、下の写真のような由緒ありげな建物が・・・!
| 海禅院多宝塔 慶安2(1649)年、紀州初代藩主徳川頼宣(家康の10男)の生母養珠夫人(お万の方)が、亡き夫、徳川家康三十三回忌追善供養のために、法華経題目を石に書いたものを妹背山上に納め小堂を建てたのが始まりだそうです〜(^。^) 夫人の没後、承応2(1653)年に、頼宣は母を弔うために多宝塔を造り、さらに拝殿・唐門等も設け、名草山・紀三井寺を遠望する位置に水閣(観海閣)を建て、島に渡るために三断橋を架けたそうです。 が、明治以後衰退し、現代ではこの多宝塔を残すのみです・・・(+_+) |
この多宝塔は島の高台にあるのですが、
この塔のすぐ近くに、なぜだか普通のお家(みたいな)が建っていて、
多宝塔の前で、「これ何?」など、バカなことを話していますと、
家の中から、おばさんが出てこられました。
そして、
「この塔は、紀州の殿さん頼宣さんのお母さんを祀ってるんやで。
観光バスも止まるんやでーーー!
ほやけど、案外地元の人は知らん人も多いわなぁ・・・」
なんて、話してくれました。
親切に教えてくれたありがたいおばさんでしたけど、
「ん??? 頼宣さんって誰だぁ〜?
いったい何代目の当主?」
またまたアホなぱいんです〜〜〜(>_<)
で、立看板を見て、
「え〜〜〜? 頼宣さんって初代の当主???
ほんで、家康の息子なのーーー?」
| まあここまでアホな人はいないと思いますが、 ちょこっと、頼宣公&お万の方について触れてみたいと思います!(^^) 頼宣さんが誕生したのは家康が60歳も過ぎた頃だそうです。 当時、お万の方はまだ十代であったと思われますから、 お万の方と家康って、かなりの年の差カップルですね〜(^^ゞ ちなみに、同じくお万の方が生んだ家康の11男である徳川頼房は、水戸家の祖となります。 つまり、お万の方は、水戸黄門で知られる水戸光圀の祖母にあたるというわけです。 さらにいうと、頼宣公の夫人は、加藤清正の娘だそうです〜(^。^) |
あらぁ〜?
お万の方って水戸黄門のおばあちゃまなのですねぇ〜ビックリ!!
多宝塔を拝んだ後、ふと見ると、
ボロボロの崩れかけた石段ではなく、ちゃんとした階段もあるではありませんかっ!
この階段を降りると、海辺に出て、そこには「観海閣」という立派な名前が恥ずかしいような、
ちゃちい建物が海に面して建っておりました!
| 観海閣から見た名草山 頼宣公は、17歳で紀州藩の藩主となり、70歳で没するまで、領主として藩の発展に力を注ぎます。 頼宣公は、ことの他この地を愛し、母の霊を多宝塔に拝んだのち、観海閣から海の向こうに見える紀三井寺を遥拝したとも伝えられています。 |
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| 生まれ故郷から遥か遠くこの紀州の地で、何を想い、海を眺めていたのでしょうね・・・ | |
頼宣公が愛した観海閣は、
かつては日本観光地百選にも選ばれた美しい楼閣建造物だったそうですが、
昭和36年の室戸台風によって倒壊してしまい、
現在は、この何の風情もないコンクリートの建物になっているそうなのです〜(>_<)
とはいうものの、
現在でも名草山の端にかかる月を眺める絶好の場所として親しまれているそうです〜!
今回は、ひょこっと出かけた初詣だったのですが、
その割には、いろいろな発見があった楽しい紀行でした。
10代の頃に父家康と死に別れ、
そして、この見知らぬ紀州というところの城主となり、治世に力を尽くした頼宣公。
名草山を眺めながら、頼宣公に思いをはせてみました〜(^。^)
これで初詣紀行、めでたく終了です〜!
長い間お付き合いいただいてありがとうございます〜
では、今年も皆さまにとってよいお年でありますように〜♪
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